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ケンポナシの下で
ケンポナシの下に立っていると小泉さんがこっちに歩いて来るのが見えた。手をあげて、やあ、と合図するとぼくより先に気がついていたのか驚く様子もなくニコニコしながらおはようございますと挨拶するからぼくもおはようございますと返した。ケンポナシの木は“孤高のあんず”の少し下の遊歩道がカーブしているところにあってぼくは八十八夜のころから時々このケンポナシで足をとめてカメムシを探している。
暑い。毎日あんまり暑い。それがまだつゆの中にいるのだからこの先はどうなるんだろう。冗談でも誇張でもない真に殺人的な暑さの夏のウォーキングはいくぶんまだ涼しい日の出前に家を出るのがいいのだがこう毎日のように熊が人を襲ったというニュースを聞かされるとどうしても家を出る時間は遅くなってしまい気温が上がり過ぎないギリギリの7時ごろとなる。通勤通学の時間で大渋滞の山環(山側環状道路)の横断歩道を渡る小学生を誘導している近所のお婆さんがいつもはおはようございますだけなのに今日は、暑いですね、などと言う。見ればお婆さんの額に玉の汗だ。ピンクの野球帽をかぶり顔が半分隠れるマスクをつけ「こどもみまもりたい」と背中に大きく書いた派手な蛍光ピンクのジャンパーを着ているのだから無理もない。ほんとですね、この暑い中毎日大変ですね、などとぼくが愛想を言っていると信号が変わってお婆さんはこどもたちに、はい渡って、と横断を促し車道のまん中に出ると両手をいっぱいに広げて車の前に立ちはだかった。愛想ない。学校はあさって夏休みに入るからお婆さんもあすまでの辛抱だ。
こっちの信号が青になり横断歩道を渡りしばらく行くと前を老女がひとり右脚を少し引きずり気味に歩いている。よく見かける人で長袖長ズボンに帽子を被るがそこはやはり女性で日焼け予防の完全装備に抜かりはない。追いついて横に並んだところでおはようございますといつものように声をかけると老女はこっちを向いて、おはようございます、暑いですね、と答える声もどこか弱々しい。丘陵公園に入り遊歩道を暫く登ると左から老夫婦が歩いて来る。この夫婦もよく見かける。すれちがいざまにおはようございますと挨拶を交わす。ウォーキング途中に顔を合わせるお年寄りはほかにいもいるがぼくが出る時間を早めても同じ老人たちに出会うのはだれしも考えることは同じなんだろう。
ケンポナシにカメムシは今日もいなかった。梢を見上げていた顔を正面に向き直ったところへ小泉さんが遊歩道を上から下りてきたのだった。袖なしの上衣に膝上までの下衣とジョギングシューズというなにかの運動選手のような出で立ちで小泉元首相に似た長髪が汗でくっついていくつかの束になり頭皮にへばり付いている。小泉さんとは一週間ぶりだろうか。ぼくも小泉さんもほぼ毎日ウォーキングに出て野田山を登っているが時間もコースも毎日ピッタリ同じではないから毎回出会うわけではない。きのうも今日も出会ったということがあれば数週間ぶりということもある。その間隔は素数の出方のようにランダムだ。それなら素数のようにそこになにか宇宙の生成に関わるような神秘的な意味でも・・・あるはずはないと思うが、ただ出会う場所がいつもちがっているのは当たり前のようでどこかなにか意味があるような気もしていてそれが今日はケンポナシだった。
小泉さんは、暑いですね、と言ってから首を傾げ、いや、そうでもないですか、と前言を撤回するから、そうでもないですよ、とぼくは同意した。きのう見た予報では今日は37度まで気温が上がると言っていたが今朝の空には雲があって太陽の直射はなかったし湿度は低いから熱中症警戒アラートも出ていなかった。きのうのうちから37度と脅されて今日は暑いんだと思い込んでいたそれが暑いですねという言葉になって口から出たが言ってみて、あれっ、そうでもないか、言うほど暑くないんじゃないか、と気が付いた。小泉さんが先に言わなければぼくが暑いですねと言っていただろうし同じようにただちに撤回していたにちがいない。
なにか見つけましたか。
いいえ、なにも、このケンポナシにはカメムシがいるんですが、オオツノカメムシです、これくらいの大きさで緑色の・・・、でも今年は見えなくて・・・。
今年はそう言えばカメムシが少ない気がします。
ええ、カメムシに人気のミズキにもあまりいないんですよ。
ぼくが小泉さんにこんなことを話すのは相手が小泉さんだからで小泉さんはこんな話しの相手になれる人だったというのは国立大の農学部それも大学院を出ていたがぼくなんかよりよほど植物や昆虫に詳しかった。
ケンポナシの実は秋になると甘くておいしいですよ。
実ってあの不細工なコブコブで黒い色のあれのことですか、今は青いきれいなこの実が・・・。
そうですよ、噛むと甘いんです。
そうですか、それは知りませんでした。
しかしあれを口に入れるのはちょっとなぁ、とぼくは思った。
ぼくはカメムシが好きでしてね、カメムシファンですね、と言ってから、変でしょう、とやや自虐的に付け加えた。こないだ草取りの村井さんにデジカメをバッグに入れているのを見られてなんの写真を撮るのかと聞かれたときカメムシですと答えて変な顔をされたことがあった。それが普通のリアクションだろう。しかし小泉さんはさすがにちがった。
なるほど、カメムシですか、カメムシは種類が多いですからね。
この辺りでも歩きながら見つけるだけでも30種類以上いますよ、下の畑のニンジンの花にはアカスジカメムシがたくさんいるし・・・。
越冬するために家に入って来るでしょう。
いや家には入って来ませんね、(墓地の)管理事務所で越冬しているのはよく見ますが・・・。
以前管理事務所の近くでオオサシガメを見たことがありますよ。
そう言って小泉さんは右手の親指と人差指でオオサシガメのサイズを作って見せたがそれが5センチ程もあってぼくはそんなおおきなカメムシがいるのかなと思ったから、シマサシガメはよく見ますがね・・・、そうだオオキンカメムシなら、オレンジ色のこのくらいの、このあたりでしたよ、見たことがあります、とぼくが知る一番大きなカメムシを対抗馬に持ち出した。ああオオキン君ねよく知っているよという顔で小泉さんはうんうんと頷いて、カメムシのなかまでハゴロモという虫がいるのですが知っていますか、と聞いてきた。
ええ、ハゴロモなら知っています。
だいぶ前にオオハゴロモという大きなハゴロモを見つけました、こんなんですよ。
小泉さんはオオサシガメのときのように右手の親指と人差指でオオハゴロモのサイズを作って見せたがそれがまた5センチ程もあった。
そんな大きなのがいますか、ちいさなやつ、ベッコウハゴロモとかアミガサハゴロモはよく見かけますがね、それと薄緑のアオバハゴロモも・・・。
オオハゴロモは捕まえるとバタバタやって暴れるんですよ。
ハゴロモは翅が蛾に似ているが蛾でも蝶でもなく頭は蝉そっくりで何匹もたくさん連なって草の茎にとまっているところをしばしば見る。こんな普通は気がつかないような地味な小さな昆虫まで小泉さんはよく知っている。ぼくはオオハゴロモというのも知らなかったがオオサシガメといい小泉さんは大型の種類が好みなのかもしれない。しかしいろいろ知らない話が多くておもしろい。
ぼくは虫は捕まえることはしません、写真に撮るだけですよ、カメムシも手で触ることはまずないな・・・。
カメムシには臭くないのが、青りんごの臭いがするのもいますよ。
そういうカメムシがいることは「ダーウインが来た!」でなんとかさんという著名らしいシニアソムリエが臭いを言い当てるのを見たことがあったから、ああ、聞いたことがありますよ、と答えたがカメムシの種類までは言えなかったのはそれがはじめて名前を聞く馴染みのないカメムシだったからでぼくも一度聞いただけで名前を覚えるほどにはカメムシファンではなかった証拠だ。
小泉さんは遊歩道で老人たちに挨拶する愛想のいい人だがいつだったか、わたしは人と連む(つるむ)のは嫌いで・・・、と小泉さんらしからぬやや品のない表現を用いて言っていた。それは吉田兼好が理想にしたような厳しい孤立主義(徒然草75段)ではない個人主義と言うべき生き方の気分で利己主義の言い換えにしか見えない近ごろトレンドの自分ファーストとはまったくちがっが、確かに小泉さんがだれかと一緒に歩いているところも話し込んでいるところも見た記憶はない。小泉さんにとって丘陵公園の遊歩道でぼくとのカメムシ談義など極めて珍しい例外中の例外なのかもしれない。それはしかしぼくも同じでぼくはあるいは小泉さんに負けず劣らず連むのを嫌うひとりでいるのが好きな人種だった。それでよく自衛隊にいたもんだと自分でも思うが矛盾はない、人はたいがいそういうものである。連むのを嫌うと言えば仏像仲間のミキオ君もまたそうで近ごろはますます個人主義に徹している。そのミキオ君に先日の小暑の日に、えらい暑さですが元気にしていますか、とメールしたとき、いつもホームページのことばかりで愛想ないことだったと思ったから暑中見舞いのつもりです、と書かでもの弁明を書き添えたら、わいに愛想はいりません、と返信してきたからそれなら頗る元気にちがいないと思い笑ってしまったが相変わらずのミキオ君流の愛想だった。 2025年7月17日 虎本伸一(メキラ・シンエモン)
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